代表取締役
看護師/保健師
前田 和哉

1986年、大阪府生まれ、32歳。
2009年3月、京都大学 医学部保健学科 看護学専攻 卒業。
大学卒業後、聖隷福祉事業団 聖隷浜松病院 救急科集中治療室にて5年間の臨床経験を積む。
2014年よりケアプロ株式会社 ケアプロ訪問看護ステーション東京にて4年間勤務。訪問看護師、事業所長、在宅医療事業部責任者を歴任。
2016年より日本看護連盟役員 青年部担当幹事。同年より都内専門学校にて非常勤講師も勤める。

2015年に末期がんの義母にフォトウェディングをプレゼントし、大きな感動を経験。一方で訪問看護事業の経験を通じ、ニーズに合った外出向けサービスが、業界に普及していないことを痛感する。

2018年、株式会社ハレを設立し、本事業を開始する。

「ハレ」を創業するまで

ーー代表・前田和哉のこれまでの歩みや、「株式会社ハレ」創業に至ったきっかけについて、インタビュー記事を掲載しています。

進路に悩んだ末、看護の世界に。ここから全てが始まった。

ーー最初に看護の世界に入ろうと思ったきっかけというのは?

 

前田 高校3年になり、「将来の進路をどうしよう…」と悩んでいた時、以前から気になっていた大学に「看護学科」が新設されたことを知りました。関西出身の僕にとっては密かに憧れていた大学でもあったので、実際にその場に足を踏み入れて学んでみたいなと。しかも看護の分野であれば、人の気持ちを考えたり、人と触れ合うのが好きな自分には向いているんじゃないかと思ったんです。

ーー実際に入られてみて、いかがでしたか?

 

前田 初めて見る世界で戸惑いも多かったですね。中でも、大きくつまずいたなと感じたのは、病院での実習時です。患者さんの状態を記す「看護記録」というものがあるんですが、良かれと思って、その患者さんの様子や「なぜそうした表情だったのか」を事細かに綴っていました。
すると、指導担当の看護師から、「数値や事実のみを短文で書くように!」と、こっぴどく叱られてしまって……。僕としては、「数値だけでは見えない、患者さんの心の状態やささいな変化を共有することも看護にはきっと必要だ!」と意気込んだつもりでしたが、その考えは現場では通用しないことがわかりました。
想像していた世界とのギャップに何度もくじけそうになり、いっそ就職先を変えて一般企業や公務員を目指そうと思ったことも一度や二度ではありませんでした。

学生時代に打ち込んだ音楽は最後までやり切った感覚はありましたが、看護については、そうとは言い切れない自分がいました。ここで中途半端にやめたら、きっとこの先自分のことが嫌になると思い、とにかくやれるところまでやってみようと覚悟を決めたんです。

壁にぶち当たりながらも最終学年になり、いよいよ進路を決める時期になりました。その時、大学に採用スカウトに来ていた、聖隷浜松病院の看護部長と対面することになり、関西出身者同士、話が弾んで、「良かったら、うちで働いてみない?」とお声がかかったんです。思いがけないオファーに驚きましたが、迷うことなく即断で就職を決めました。
京都から静岡県の浜松市へ。地元から離れ、初めての土地に足を踏み入れることになったわけですが、不安よりも、「看護師としてようやく新しいスタートを切れる!」と、胸が高鳴っていました。

生死を分ける救急の現場に配属。看護とは何かを考えさせられた

ーー新人看護師として初めて入った職場は、いかがでしたか?

 

前田 そうですね。聖隷浜松病院は、常時800人ほどの患者さんの治療を手がける大規模な総合病院で、地域の医療を支える“中核”を担っていました。「自由とチャレンジ」の精神を重んじる風土があって、病院全体が先進的な取り組みをして行こうという気概に満ちていたのも、新人の僕の目には刺激的に映りました。

最初に配属されたのは、もっとも過酷とも言える、救急科の集中治療室(ICU)でした。

毎日、ひっきりなしに患者さんが救急車で運ばれ、生死にかかわる重篤な症状を抱える方も少なくありません。まさに戦場そのもので、一分一秒の遅れが命とりになる救急の現場では、新人は追いつくのが精いっぱいで、来る日も来る日も、「何も貢献出来ていない自分」にはがゆい想いをするばかりでした。

ただ、一年、二年と月日を重ね、一通り仕事に慣れてくると、もともとの僕の性格もあってか、看護師としての仕事やあり方にさまざまな疑問や感情を抱くようになったんです。

ーー具体的にどんなことを感じるようになったのでしょうか?

 

前田 看護師は次から次へと訪れる患者さんの対応に追われるため、看護師はスピーディな動きと、いかに業務の効率を上げるかを求められます。

自分としては、もっと患者さんとコミュニケーションを取ったり、患者さんが望んでいることや、困っていることに耳を傾けたりしたいのですが、それをしていたら仕事が全くもって追いつかなくなります。ジレンマやもどかしさも感じていました。

ーー確かに病院に行くと、速足でキビキビと対応する看護師さんをよく見かけますものね。

 

前田 実はもうひとつ、病院で働いていて痛烈に感じたことがあります。
それは病院にいる限り、患者さんの自由はかなり制限される(それぞれが望む生活はできない)ということです。
朝昼晩の食事は一様に決められ、もちろん嗜好品はNG。起床や消灯時間も厳密に決まっている。特にICUの患者さんは、ちょっと腰かけたり、散歩したりという小さな希望を叶えることも難しいのが現状です。
そもそも病院は身体を治すところなので、そこに自由を持ち込んで危険が及んでしまっては元も子もないことはわかります。一方で終末期にさしかかり、その先の治療を望んでいない患者さんも同じように自由を制限してしまっていいのか? もっと最期の時間を自分の望むように過ごせないのだろうか? と疑問を感じることもありました。

ICUに勤務して数年が経った時、自分は看護師としてどう働きたいのか、将来の働き方を模索するようになりました。

その人らしい最期を迎えるために。訪問看護師として奮闘!

ーー前田さんにとってのキャリアの転機がやって来たのですね。

 

前田 まさにそうですね。これからのことを色々と模索する中で、ある会社と出会いました。それが、健診など予防医療や訪問看護の事業を手がける、ケアプロ株式会社です。

2007年に20代の若き社長が創業したその会社は、誰でも気軽にワンコインで健康診断が受けられる仕組みを作るほか、24時間365日対応の訪問看護ステーションを立ち上げるなど、業界ではかなり革新的な取り組みをしていました。

訪問看護師は15年、20年と経験を積んだベテランでないと務まらないとされる業界の常識を打ち破り、20代の新人・若手看護師が日夜、地域の患者さんたちを支えて、がんばっている。純粋に「この会社、いいな!」って思いました。それに訪問看護師なら、もっと患者さんと密接に、長いスパンでかかわることができるかもしれないと思い、5年勤めた病院を辞めて転職することにしたんです。

(写真)訪問看護の現場では、100人以上の患者さんを担当。終末期にさしかかった患者さんが多く、相棒の自転車で一日4、5軒ほどご自宅を回った。

ーー病院の看護師から訪問看護師へ。実際に働いてみてどんな違いがありましたか?

 

前田 浜松から上京して、都内の訪問看護ステーションでの勤務が始まったのですが、地域の患者さんの“暮らしの中に飛び込む看護”は、いい意味でカルチャーショックを受けました。

印象的だったのは、ひとり暮らしのがんの末期のおじいさん。
もうごはんは口にできず、「大好物のビールしか喉を通らない!」と言うので、医師と相談して最期はご本人の希望に沿うことにしました。ご本人のお望み通り、いつでも飲めるようにと、ベッドの柵に「ビール置き」を作ったり。飲みづらい時にはビールに「とろみ剤」を入れてみたり。思わぬ化学反応が起きて発泡してしまい、その場が笑いに包まれたこともありました。
病院の常識では考えられない看護師らしからぬ看護でしたが、ご本人は大好きなビールをひとくち、ひとくち楽しみ、満足していた様子。最期は穏やかな表情で息を引き取られたのがとても印象に残っています。

また、脳梗塞を患ってしまったおばあさんがいました。
そのおばあさんは、小学生のお孫さんにこんなことを言われたそうです。
「おばあちゃん、死ぬまでにやりたいことって何?」。

子どもだからこそ言える、あまりにも率直な問いかけですが、そのおかげで「家に帰って家族と暮らしたい」「近所の人とお茶を飲みたい」「一家全員で集まりたい」という3つの「やりたいことリスト」を作れたそうです。
家族の協力もあり、在宅医療に移行することになったおばあさんは、無事に家に帰って、最初の2つの願いを叶えましたが、ほどなくして意識不明に……。でも、意識がない中でも、「親戚全員と会えるまでは!」とがんばり、全員が集まったその日の午後に亡くなったのです。
その場に立ち会わせてもらった僕は、不謹慎かもしれないけれど、「こういう最期って素敵だなぁ」と思ったんです。そして全部やり切った後に命を終えるという、人間の生命の底力、神秘を感じて心が震えたのでした。

(写真)在宅では長い期間、患者さんと関われることから、「この先、どう過ごしたいのか?」を一緒に考えることができた。患者さん本人の意思を尊重した、穏やかでゆるやかな看取りを支えられたことは自分にとって大きな経験。

婚約者のお母さんが末期がんに。フォトウェディングをプレゼント

――心に残る素晴らしいエピソードですね。人が生きる上では、「生きがい」がとても大事なのだと感じさせられます。

 

前田  おっしゃる通り、まさに「生きがいが、人の生きる力となる」ことを僕自身、さまざまな人たちの死に直面して、強く思うようになりました。

病にかかった人を目の前にした時、医療者はまず治すこと、そして生命を維持することに力を注ぎます。
ですが、それによって、「本人の生きがいや人生の楽しみ・喜び」まで奪ってしまってはいけない。
治療によってただ命を長らえさせるよりも、「命を輝かせる」ことのほうが大事なんじゃないか?
そうした問いが、自分の中でどんどん湧いてくるようになったのです。

そんな中、プライベートでも転機がありました。
結婚しようと心に決めていた彼女のお母さんが、すでに末期がんに侵されていることがわかったのです。まだ式の日取りは決まっていませんでしたが、どうしてもお母さんに彼女の晴れ姿を見せてあげたい。結婚する自分たちの姿を見せて、安心させてあげたいと思い、フォトウェディングをプレゼントすることにしたんです。

「一生の想い出だね」とすごく喜び、幸せそうな笑顔を見せてくれたお母さん。残念ながら、実際の結婚式に参列することは叶わなかったですが、「あの時、思い切ってやってよかった!」と心の底から思いますし、僕たち家族にとってかけがえのない宝物になったことは間違いありません。

“生きる”だけでなく、“生きがい”が持てる世の中を作りたい

――お母さま、お2人の晴れ姿を見られて幸せだったでしょうね。最後に素晴らしい贈り物をされたと思います。

 

前田  ありがとうございます。そう思ってもらえたら、息子冥利に尽きますよね。
ただ、一方でこんな想いも湧いてきました。すでに体が弱ってきていたお母さんに心置きなく外出してもらえたのは、僕も彼女も現役の看護師で、万が一の体調不良に備えることができたからこそ。僕たちはたまたま実現できましたが、「きっと行きたい場所や、やりたいことがあっても叶えられずに最期を迎えてしまう人はたくさんいるんじゃないのか?」と、考えるようになったのです。

その後、職場では訪問看護ステーションの所長や在宅医療部の事業部長という重責を任されるようになり、経営戦略の策定やナースの人材育成など、めまぐるしい日々が数年ほど続きました。
でも、一度自分の心に灯った炎は消えることなく、むしろ、ますます燃え上がっていきました。
それはこんな想いです――。

「病を持つ患者さんや不自由を抱える人たちが、“生きる”だけでなく、“生きがい”を持てる世の中を作りたい! 命を輝せられる世の中を作りたい!」。
そして、「日々業務に追われ、こなすだけになってしまっている看護師や、『もっと患者さんに何かできたのではないか?』と無力さを感じる看護師たちに、のびのびとやりがいを持って働ける環境を作りたい!」

自分でも驚くほど、大それた夢を描いてしまったと思います。
でも、これらの既存にはない形を実現するためには、会社という枠を超えて、新たに生み出すしかない! と思い、起業を決意。2018年3月にケアプロを退職し、同年6月に株式会社ハレを設立したのです。

(写真)お父様の「ヴァージンロードを娘と一緒に歩きたい!」という夢を果たすべく、「かなえるナース」が同行。式の当日、美しい晴れ姿の娘様と対面すると感動のあまり涙を流され、同時に明るい笑顔も見せられた。お父様のために急ピッチで式の準備をされてきたご家族からは、「やりきったと思えた」と晴れやかな表情でおっしゃっていただき、胸がいっぱいに。当日の感動のシーンはこちら。

――患者さんも、看護師さんも、どちらも輝く。そんな場や機会を創造していかれるんですね。この「ハレ」という社名にはどんな想いが込められているのでしょうか?

 

前田  人生における「喜び(慶び・歓び)事」を表す、「晴れ」から名付けました。老いや病や身体の不自由を抱えた人も、生きる喜び(生きがい)を感じ、晴れやかに人生をまっとうできるよう、応援していきたい。
その事業の一つが、「かなえるナース」です。一生に一度の大切な家族の結婚式や大事な記念日、ずっと行きたかった憧れの地への旅行など、重い病を持つ方でもあきらめることなく、ご自身の夢や希望を叶えられるよう、「経験・スキル・心」ともに磨かれた看護師がきめ細やかにサポートするサービスです。

また、自分らしい生き方や死の迎え方を考える終活事業、セカンドキャリア支援など、人生のファイナルステージを彩るための事業も展開していく予定です。
誰もが人生を終えるその日まで、輝ける世界を目指して――。自分ひとりでは成し得ない大きな夢ですので、たくさんの方の力をお借りしながら、走り続けていきたいと思っています。

◎取材・文
伯耆原良子(ほうきばら・りょうこ)
フリーライター・エッセイスト。早稲田大学第一文学部卒業後、人材ビジネスを経て、日経ホーム出版社(現・日経BP社)にて編集記者に。2001年に独立後、雑誌や書籍、Web等で執筆多数。企業のトップから学者、職人、芸能人まで1500人以上に人生や仕事観をインタビュー。